staff blog

昭和20年遺書・恋人へ

終戦記念日が近付いていますので、戦時の話題です。

今年戦後81年目を迎えますが、戦争中にも人々のくらしはあり、引き裂かれた恋人達の物語もありました。

終戦間近にもかかわらず九州の南端、鹿児島県知覧飛行場からは片道の燃料を積んだ飛行機が特攻隊として飛んで行ったのです。

知覧特攻記念会館には、そういった若者の記念品が多く展示されています。恋人へ送った遺書がありますのでご紹介いたします。


 

資料型式 遺書・手紙類

備考         婚約者の智恵子さんは,穴澤大尉が戦死された4日後(4月16日)にこの手紙を受け取りました。

数量         4枚

媒体          紙,ペン

サイズ (cm) 20×13

作成年代 1945年

 

関係する特攻隊員情報

名前    穴澤 利夫(あなざわ としお)

戦死後の階級 大尉

年齢         23歳

出撃基地 知覧

出身地         福島県喜多方市

飛行機         一式戦闘機「隼」

出身学校 中央大学

部隊名         第20振武隊

戦死年月日 1945(昭和20)年4月12日

出身期別 特操1期

備考        

穴澤大尉には,大学時代に将来を約束した智恵子さんという婚約者がいました。彼は出撃前に,智恵子さんからマフラーを贈られました。「神聖な帽子や剣にはなりたくないが,替われるものならあの白いマフラーのように,いつも離れられない存在になりたい」という彼女の一途な思いに応え,彼はそのマフラーを彼女の身代わりとして,首に巻いて出撃しました。

遺書の内容            

二人で力を合わせて努めて来たが,終(つい)に実を結ばずに終った。 希望を持ち乍(なが)らも,心の一隅(ひとすみ)であんなにも恐れていた“時期を失する”と言ふ(う)ことが実現して了(しま)ったのである。

去月(きょげつ)十日(とおか),楽しみの日を胸に描き乍(なが)ら,池袋の駅で別れてあったのだが,帰隊直後,我が隊を直接取り巻く状況は急転した。発信は当分禁止された。(勿論(もちろん)今は解除) 転々(てんてん)と処(ところ)を変へ(え)つつ多忙の毎日を送った。そして今,晴れの出撃の日を迎へ(え)たのである。便りを書き度(た)い。書くことはうんとある。

然(しか)しそのどれもが今までのあなたの厚情(こうじょう)にお礼を言ふ(う)言葉以外の何物でもないことを知る。あなたの御両親様,兄様,姉様,妹様,弟様,みんないい人でした。至らぬ自分にかけて下さった御親切,全く月並(つきなみ)のお礼の言葉では済みきれぬけれど「ありがたふ御座いました(ありがとうございました)」と,最後の純一(じゅんいつ)なる心底(しんそこ)から言って置きます。

今は徒(いたずら)に過去に於(お)ける長い交際のあとをたどり度(た)くない。問題は今後にあるのだから。常に正しい判断をあなたの頭脳は与へ(え)て進ませて呉(く)れることと信ずる。然(しか)し,それとは別個に婚約をしてあった男性として,散って行く男子として,女性であるあなたに少し言って征(ゆ)き度(た)い。

「あなたの幸せを希ふ(ねがう)以外に何物もない」

「徒(いたずら)に過去の小義(しょうぎ)に拘(こだわ)る勿(なか)れ。あなたは過去に生きるのではない

「勇気を持って,過去を忘れ,将来に新活面(しんかつめん)を見出すこと」

「あなたは,今後の一時(いっとき)一時(いっとき)の現実の中に生きるのだ。穴澤は現実の世界には,もう存在しない」

極(きわ)めて抽象的(ちゅうしょうてき)に流れたかもしれぬが,将来生起(せいき)する具体的な場面々々(ばめんばめん)に

活(い)かして呉(く)れる様(よう),自分勝手な,一方的な言葉ではない積(つも)りである。

純客観的(じゅんきゃっかんてき)な立場に立って言ふ(う)のである。当地(とうち)は既(すで)に桜も散り果てた。

大好きな嫩葉(わかば)の候(こう)が此処(ここ)へは直(じき)きに訪れることだらふ(う)。

今更何を言ふ(う)か,と自分でも考へ(え)るが,ちょっぴり慾(よく)を言って見たい。

●読み度い本(よみたいほん)

「万葉(まんよう)」「句集(くしゅう)」「道程(どうてい)」「一点鐘(いってんしょう)」「故郷(ふるさと)」

●観たい画(みたいが)

ラファエル「聖母子像(せいぼしぞう)」 芳崖(ほうがい)「悲母観音(ひぼかんのん)」

●智恵子(ちえこ) 会ひ度い(あいたい),話し度い(はなしたい),無性に(むしょうに)。

今後は明るく朗(ほが)らかに。自分も負けずに,朗(ほが)らかに笑って征(ゆ)く。

利夫(としお)

智恵子様(ちえこさま)




愛する人に、遺書しか残せなかった時代——白いマフラーと特攻隊員の婚約者

いまなら、別れの言葉はスマホに残るのかもしれない。

LINEの短い文字か。

消されたSNSのスクショという痕跡か。

あるいは、送信できないまま残った文章かもしれない。

だが、戦争中の若者が愛する婚約者に残せたものは少ない。そして、ある者は「遺書」だった。

白いマフラーを巻き、特攻機に乗って飛び立った男がいた。

その帰りを、待ち続けた女性がいた。

人が人に「死んでこい」と命じた時代の悲劇だ。

若い命を兵器として消耗させた、むごい作戦の裏にあった事実だ。

その話を知って欲しい。

ただし、これは特攻隊員の美談ではない。

いまの日本は、一見すれば平和に見える。だが、世界のあちこちで戦争は続き、軍事の言葉は日常に入り込み、武器輸出を企み、気づけば戦争の足音が少しずつ近づいているようにも感じる。

だからこそ、若い世代に読んでほしい。

戦争とは何なのか。

それは、遠い国のニュースでも、教科書の中の出来事でもない。

愛する人に、ただ会いたいと願うことさえ奪われる時代のことである。


この物語に登場する二人、穴澤利夫さんも、伊達智恵子さんは、もう何も語れない。

だから、聞いた者が残しておきたい。

この記録が若い人の目にとまることを信じて。

婚約者からの遺書

鹿児島県薩摩半島の南端に裾野を広げる開聞岳。

別名「薩摩富士」とも呼ばれるその姿は、まさに富士を思わせる威容を誇る。
かつてこの山に祖国の面影を抱き、
振り返りながら、死地への旅に出て行った男たちがいた。

彼らは「特別攻撃隊」と呼ばれた。


開聞岳

太平洋戦争末期、連合軍に追い詰められた日本軍は、戦闘機に250キロもの爆弾を搭載し、人間もろとも敵艦に突っ込ませるという、文字どおり「必死」の攻撃によって反撃を試みた。

国から爆弾の代わりにされた人たちの人生とは、どのようなものだったのだろうか。

戦後60年目にあたる2005年、私はこの特攻隊の取材にあたった。その残酷さを何かの形で伝えたかったからだ。

若き特攻隊員が残した遺書や、生き残った隊員の話など、これまでも数多く関連の書籍や番組があった。
けれど私が知りたかったのは、特攻によって引き裂かれた恋人や夫婦の話だった。愛する人を残してどんな想いを抱え、操縦桿を握りしめ死地へと向かったのか。

残された彼女たちは、今までどのようにして生きてきたのか。戦後から60年が経ち、直接取材ができるタイムリミットも近づいていた。

取材するならば、これまでメディアに登場していない人の話を聞きたかった。

鹿児島県にあった知覧特攻基地から出撃した隊員の1人に婚約者がいた。

結婚式の日どりまで決まっていたのに、そのわずか10日前に出撃命令が下る。

婚約者の女性は彼に会うために東京から九州へ向かうが、ついに出撃には間に合わなかった。

ところがその後、彼女のもとへ、最後の手紙」が届いたという。それは婚約者からの遺書だった…。

東京で暮らしているその女性と会うことができた。

新宿のホテルの喫茶室。

伊達智恵子さんは、綺麗なシルバーグレーの髪におしゃれなメタルフレームのメガネが似合う、上品な女性だった。

この時80歳。

「あらまあ、取材なんてとんでもないです。テレビなんて……」と小さく手を振り、口に手を当てて微笑む仕草は、まるで少女のようだった。

太平洋戦争末期、彼女に一体何があったのか。

私は智恵子さんと少しずつ意思の疎通を始めた。取材カメラを回さずに、最初はただ話だけを伺っていった。

京成電鉄青砥駅から下町風情の商店街を抜けると、集合住宅が建ち並んでいる。

その一室で智恵子さんは一人暮らしをしていた。

綺麗に片付けられた部屋の片隅には軍服姿をした婚約者のセピア色の写真が飾られ、一輪挿しが手向けられていた。

ネジ巻き式の柱時計が、ボーンと時を告げる。

「今更、お話しすることなんて何もないんですよ」

智恵子さんはそう言いながら、60年前の遠い記憶を手繰るように語ってくれた。


伊達智恵子さん

御茶ノ水、たった一駅の幸せ

当時の時代背景などもわからず、繰り返し何度も智恵子さんとお会いし、まるで質問責めのような取材になった。

当時の暮らしや文化はどうだったのかなど、基本から確認していく次第となり、手元には膨大なメモが蓄積していった。

2人の出会いは、1941年7月のだったという。

女学校を卒業した17歳の智恵子さんは、本好きが高じて図書館の司書を目指していた。その夏は、御茶ノ水の学校の図書室で実習をした。

そこにいた先輩が、穴澤利夫さんだった。穴澤さんは、会津生まれの中央大学の学生で、智恵子さんの2つ年上だ。

この年の12月、真珠湾攻撃によって太平洋戦争が開戦。

〈臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部、12月8日午前6時発表。帝国陸海軍は今8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり……〉

日本放送協会(NHK)のラジオはそんな「大本営発表」を伝えた。以後、報道は戦意高揚の手段として利用されていく。

知り合って半年後の1942年1月、穴澤さんから突然に電話で連絡があった。

「上野の博物館の前で会いましょう」

呼び出される心当たりは無かった智恵子さんは、不思議に思いながら出向いたという。

「博物館の前には、おしゃれなガス灯が並んでいました。『歩きましょう』と言われ、私は少し遅れて付いて行きました」

突然振り返った穴澤さんが言った。

「僕とつきあってもらえませんか」

「最初は、意味がわからなかったんです。で、はっと気がついて、私は逃げるように家に帰りました。学生同士がつきあうなど、はしたないと言われる時代だったんです」


出会った頃の二人 (智恵子さん提供)

その後、手紙が届く。

24枚にも及ぶ便箋、そこには智恵子さんへの真剣な気持ちが込められていた。それをきっかけに何10通にもわたる文通を経て、次第に智恵子さんも穴澤さんに親しみを感じるようになった。

ある日の夕方だった。

智恵子さんは、御茶ノ水駅のホームで電車を待つ穴澤さんを見かけた。

気がつかれないように彼の背後に回って、背中を指でそっと突いた。

「利夫さんの振り返った驚きの顔が、私と目を合わせたとたんに崩れて、うれしそうな笑顔に変わっていきました。隣の秋葉原までの一駅だけでしたが、一緒に電車に乗れることが、小さな幸せでした……」

そんな他愛のない付き合いが続き、2人は次第に結婚を意識するようになった。

しかし、時代の大きなうねりに2人は巻き込まれていく。

6月のミッドウェー海戦で、海軍は航空母艦4隻を失ってしまう。しかし大本営は「我が方損害航空母艦1隻喪失、同1隻大破……」とし、逆に米軍の空母・エンタープライズやホーネットなどを撃沈したと発表した。

「当時の新聞には、毎日『勝利』の文字が並んでいました。もちろん疑うことなどしません。国を信じていましたから」

この頃、日本はすでに太平洋の制圧権を失っていたのだが、報道で「勝ち戦」と信じる人々に対して、国は「召集令状」を送りつけていたのである。

明治末期に定められていた「新聞紙法」は、新聞や雑誌から自由編集権を奪っていた。記事はその都度検閲を求められ、不適合となったものは掲載できない。反戦思想や軍の不利となるものはことごとく排除されていたのだ。

1943年10月。

穴澤さんは、大学を繰り上げ卒業して陸軍へ入隊することになった。

「反対することなど到底できる時代ではありませんでした。何かを望んだところで、どうにもならない。それが戦争です。今思えば私も軍国少女になっていたんですよ」

「マフラーになりたい」

初めて出会った図書室で、2人きりの送別会を行った。

すでに物資は乏しい時代だった。

智恵子さんは、乾パンと紅茶をなんとか用意して、ささやかな、お茶会で彼を送ったという。

穴澤さんは「特別操縦見習士官」として飛行学校に入校、戦闘機の操縦訓練を始める。

2人を結ぶものは手紙のやりとりだけになった。

穴澤さんが封書に入れて送ってきた1枚の写真。

耳当てのついた帽子に、ゴーグルを載せた穴澤さんの飛行服姿。鼻筋がすっと通り、きりっとした目元は、意志の強さを思わせる。襟元からは白いマフラーがのぞいていた。

智恵子さんはその写真を見て、思いきった返事を書いたという。

〈剣や帽子にはなりたくないけど、あなたのマフラーになら、なりたいと思います。代われるものなら白いマフラーになりたい。いつもあなたと離れないそんな存在に〉

「あれは勇気を振り絞った、私なりのプロポーズの言葉だったのね」

照れくさそうに智恵子さんは笑った。

1944年12月。

穴澤さんに会いたくて、智恵子さんは1人で訓練地の大阪に行った。夜まで長く待たされたが、少しの時間だけ面会が叶った。

飛行学校出の穴澤さんは、この時すでに少尉。訓練で顔は小麦色に焼けていた。士官室とは名ばかりの殺風景で冷え込む部屋で向き合った。

しかし、智恵子さんが勇気を出して書いたプロポーズの手紙には特に反応がなく、他愛のない話に終始する。

ところが、別れ際に穴澤さんは智恵子さんを見つめてこう言った。

「そのマフラーを貸してくれないか」

智恵子さんは父親に買ってもらったジャージ生地のマフラーをしていた。

グレーと赤が混じった女物。
彼はそのマフラーを受け取ると、飛行服の白い絹のマフラーを外して、彼女のマフラーをさっと巻いた。

「利夫さんは、私のマフラーが見えないよう、その上から再び白いマフラーで覆い隠したのね。私は、はっとしました。それが私の『マフラーになりたい』という手紙に対する穴澤さんの返事だと思ったからです」

その後に彼から届いた手紙。

〈襟巻きは、持っているもので唯一あなたが身につけたもの。感一入で、四六時中愛用せり——〉

結婚というささやかな夢を打ち消すかのように、戦争は激化の一途を辿っていく。

新聞、ラジオにおいて、
退却は「転進」、全滅は「玉砕」という言葉に置き換えられた。

「特攻」についても報じられるが、それは「必死」の攻撃を美化したものであった。

「特攻隊という文字が頻繁に新聞に並ぶようになっていました。記事には必ずと言っていい程『勇ましい』『神風』という文字が並んでいました。そんな記事を見て利夫さんのことを思うと、私までが偉くなったような気すらしたのです」

しかし、届いた手紙に、智恵子さんは打ちのめされた。

〈恐らく近いうちに、帰らざる任務につく、会いに来てほしい〉

それは特攻隊に選抜されたことを、遠回しに知らせるものだった。

2人きりの一夜

1945年2月、智恵子さんは夜汽車に揺られ、穴澤さんが訓練を続ける三重県の亀山へ向かう。薄暗い車内の冷え込む木製椅子でただ穴澤さんを想った。

亀山の基地では厳しい訓練が行われていた。智恵子さんはそこで初めて戦闘機を目にしたという。

2人の気持ちは離れがたいものになっていたが、結婚に踏み切れない事情があった。穴澤さんが実家から結婚に反対されていたという。

「戦争の真っ最中で先が見えない中、結婚などして、どうするのか……。そんな心配からだったのでしょう。私は利夫さんのお墓を守る覚悟までできていたんですけどね」

少尉が結婚するには軍の許可が必須で、その申請のためには親の承諾が必要、という時代だった。せっかく会えた2人だが、結婚に向けての具体的な話は進まなかった。

亀山に来て1週間が過ぎた。

穴澤さんが属する隊の隊長が2人に気遣って、旅館に部屋を取ってくれた。

呼ばれた智恵子さんは、襖を開けて驚いた。その部屋が大広間だったからだ。しかもそこに布団が一組だけ敷かれていた。なかなか結婚できない2人の背中を隊長が押したのだ。

遅れて部屋に入ってきた穴澤さんは、寝具を見つめてぽつりと言った。

「いいのか?」

婚約ができない中、智恵子さんは、穴澤さんの想いをまだ受け入れることはできず、小さく首を振ったという。

「そうか」

一言だけ言うと、彼は布団に入ってあっけらかんと熟睡した。

「訓練で疲れて、ぐっすり眠る利夫さんの寝顔を、私はただ見つめていました。利夫さんは私の気持ちを大切にしてくれたんです。その綺麗な寝顔を忘れることができません。まるで仏様のようでした」

智恵子さんは、いつの間にかシューベルトの子守唄を唄っていた。

布団の脇には、たたまれた軍服。

手を握ることもできない中、せめて彼の服だけでも触れたい……ふと、そう思った。だが身を挺して戦う特攻隊は、神様と教えられ「神鷲」と呼ばれていた時代だ。カーキー色のそれは神の服。そう思うと、ついに触れることはできなかった。

明け方、穴澤さんは一人で基地に戻って行った。

すれ違い

東京に戻ったある晩のことだった。

三田にあった智恵子さんの家に、突然穴澤さんが訪れる。

それは正式な結婚の申し込みだった。やっと両親から許しが出たという。

智恵子さんも家族と話し合い、2週間後に亀山で結婚式を行うことに決まった。突然で何の用意もできなかったけれど、その日そのまま結納を取り交わした。

彼女は幸せをかみしめていた。こんどこそ、一緒になれる……。

ところがその夜、東京は地獄と化す。

1945年3月10日、東京大空襲だった。

「庭の防空壕に飛び込みました。空を見ると真っ黒で大きな爆撃機が上を通って行って、やがて遠くの空が真っ赤になった。どこが空襲を受けているのかラジオも伝えないから何もわからなかったです」

大きな被害は隠される中、国民の多くは知る由もなかったが、この日、B29の大編隊が東京中に焼夷弾を撒き、10万人もの命を奪っていったのである。

なんとか空襲を免れた智恵子さんは、穴澤さんの身を案じた。

夜明けとともに彼が宿泊していた目黒方面へと走った。

すると偶然にも、大鳥神社の近くでばったりと会うことが出来た。穴澤さんは智恵子さんを見つけると、「よう」と手を上げたという。彼は、大宮にあった飛行場に戻るところだったのである。

智恵子さんは、穴澤さんを見送るため一緒に山手線に乗った。空襲の影響で、ようやく来た電車は超満員。車内で次第に離れ離れとなり、途中まで行くのがやっと、という状態だった。最後は激しく混雑する池袋のホームでの別れとなった。

「東京はもう危ない、荷物なんかいいから、早く三重に来なさい」

しばしの別れ。智恵子さんはそう信じていた。

結婚式の10日前

すべての状況は一変する。

穴澤さんの部隊に移動命令が下ったのだ。
智恵子さんはモンペ姿で三重に向かう汽車に飛び乗った。

しかしすでに穴澤さんは九州の基地へ移動していた。

「私は必死でした。どうしても利夫さんに会いたくて。やっと結婚できることになったんですから、せめて一度でも妻として見送りたい。今なら、ためらうことなくあの人の胸に飛び込めると思ったのです」

智恵子さんは列車を乗り継ぎ九州へ向かう。すでに沖縄では激しい戦闘が始まっていた。穴澤さんがいつ特攻出撃するか全くわからない。

部隊の移動先は宮崎県の都城らしいと聞いたものの、特攻隊の作戦は極秘だった。そもそも基地の場所すらはっきりさせない時代だった。智恵子さんは陸軍の飛行場を尋ね尋ねて、都城の空の下をただ歩き続けた。

「紺碧のような空に、まるで夏のような入道雲が広がってました。東京に比べて宮崎は暖かく、花が咲き乱れ、ひばりがさえずっていた。こんなに平和なのに、なぜ人は戦争などするのだろうか、そんなことを考えてただ歩きました」

たどり着いた場所は草が茂る滑走路だった。都城東飛行場。

やっと会える。

ところが、穴澤さんはすでに3日前に出撃していたのだ。

「もう二度と会えない。そう思ったら力が出なくて、その場に座り込んでしまいました」

当時の様子を思い出した智恵子さんは言葉に詰まった。

智恵子さんは知る由もないのだが、実はその頃穴澤さんはまだ九州にいた。都城から鹿児島を隔てた70キロ先の知覧基地で、天候待ちのために待機していたのである。この基地も特攻のために密かに作られ、戦後まで極秘とされていた場所だった。

悲しすぎるすれ違い。

そして1945年4月12日、穴澤さんはついに出撃の日を迎える。

遺書しか残せなかった
「コチコチ」と柱時計の音が響く、智恵子さんの部屋。

「どうぞご覧ください」

彼女は、私の前に一冊のノートを置いた。



大切に保存されてきた婚約者からの遺書

古びた表紙をめくれば、そこには黄ばんだ便箋がテープで留められていた。余白には、智恵子さんの字で〈最後に頂いた御手紙〉とある。

それは東京に戻った智恵子さんを追いかけるように、1945年4月16日に届いた穴澤さんからの手紙だった。

知覧出撃の数時間前に書かれたもの。青いインクで一文字、一文字丁重に記されている。

2人で力を合わせて来たが、終に実を結ばず終わった。
希望を持ちながらも、心の一隅であんなにも恐れていた、時期を失すると言うことが実現してしまったのである。

去月10日、楽しみの日を胸に描きながら、池袋の駅で別れたが、直後に状況は急転した。発信は当分禁止された。

転々と処をかえつつ、多忙の毎日を送った。

そして今、晴れの出撃の日を迎えたのである。

便りを書きたい。

書くことはうんとある。

しかし、そのどれもが今までのあなたの厚情にお礼を言う言葉以外の何物でもないことを知る。

月並みのお礼の言葉では済み切れぬけれど、
「ありがとうございました」

あなたは過去に生きるのではない。
勇気を持って過去を忘れ将来を見いだすこと。
穴澤は現実の世界にはもう存在しない。

今更何を言うかと自分でも考えるが、ちょっぴり欲を言ってみたい。

智恵子、会いたい、話したい、無性に。

今後は明るく朗らかに。

自分も負けずに、朗らかに笑って征く。

それは、婚約者からの遺書だった。


遺書を転記したもの

一覧に戻る

contact

施設の事、料金について、入居のご相談などはお問合せフォーム・お電話にてお気軽にご相談下さい。

お電話でのお問い合わせ

受付時間 9:00~18:00 (土日祝定休)

フォームからのお問い合わせ

お問い合わせ