2026.2.4
春は曙(あけぼの)
今日は2月4日。清少納言が枕草子で書いた「春は曙」の春が始まる日です。まだまだ寒く雪もちらつく日がありますが、平安時代は現代とあまり変わらない気温だったようです。寒さを防ぐ手段が限られていた時代なので大変だったと思います。

「枕草子」原文
春はあけぼの。 やうやう白くなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。
夏は夜。月のころはさらなり。闇もなほ、蛍の多く飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど 、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし。
秋は夕暮れ。夕日のさして山の端いと近うなりたるに、烏の寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど、飛びいそぐさへあはれなり。まいて雁などのつらねたるが、いと小さく見ゆるはいとをかし。日入りはてて、風の音、虫の音など、はた言ふべきにあらず。
冬はつとめて。雪の降りたるはいふべきにもあらず、霜のいと白きも、またさらでもいと寒きに、火など急ぎおこして、炭もて渡るもいとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火も白き灰がちになりてわろし。
「枕草子」現代語訳
春は、夜明けが良い。だんだん白んでいく山の稜線が少し明るくなって、紫がかった雲が細くたなびいているのが美しい。
夏は、夜が良い。月が出ている頃はもちろんだが、闇夜でも蛍がたくさん飛び交っているのは風情がある。また、一つ二つと、かすかに光りながら飛んでいく蛍も趣がある。雨が降るのもまた良いものだ。
秋は、夕暮れが良い。夕日が差して、山の端にとても近くなった頃に、カラスがねぐらへ帰ろうとして、三羽、四羽、あるいは二羽、三羽と急いで飛んでいく姿さえも、なんともしみじみとした情感がある。まして、雁の群れが連なって飛んでいるのが小さく見えるのは、とても趣深い。日がすっかり沈んでしまってから聞こえる、風の音や虫の声などは、もう言うまでもないほど素晴らしい。
冬は、早朝が良い。雪が降っている朝は言うまでもない。霜がとても白く降りているのも、またそうでないとても寒い時には、火などを急いで起こして、炭を持って行き来するのも、実にふさわしい光景だ。昼になって、暖かくなってくると、火鉢の火も白い灰が多くなってしまい、良くない。
清少納言

枕草子の作者、清少納言(せいしょうなごん)
京都に都を遷都した794年の平安京遷都から1185年の鎌倉幕府成立まで、約400年続いた平安時代。どんな時代だったのか。
清少納言の生きた平安時代

平安京の都市計画として、平城京や藤原京と同様に、唐の都・洛陽や長安の制度を模倣した碁盤の目のような区画整理された条坊制が採用されたが、都の周囲には羅城がなく、軍備施設も具備されなかった。さらに、天皇の住まいと政庁を兼ね備えた大内裏を都の北辺中央に置く、平安京独自のプランも見られた。
清少納言は歌人清原元輔のむすめ。当時の女性としては、めずらしく漢文も読みこなした。一条天皇のきさき定子に仕え、そのときのことを「枕草子」にあらわす。
清少納言と紫式部

「紫式部」と「清少納言」はどちらも言わずと知れた、平安時代中期の女流作家です。一方で紫式部の「源氏物語」は「作り物語」、清少納言の「枕草子」は「随筆」と、それぞれが執筆した代表作のジャンルは異なっています。そんな2人はライバルとして何かと比較され、一部では不仲説が囁かれていますが、実際はどうだったのでしょうか。NHK大河ドラマ「光る君へ」の登場人物としても話題を呼んでいる紫式部と清少納言について、彼女達の共通点と違いを解説しつつ、両者の関係性について探っていきます。
紫式部と清少納言における3つの共通点
①「宮仕え」をして中宮の教育係を務める
「源氏物語」と「枕草子」はジャンルこそ違いますが、両作品とも平安時代中期の貴族社会を題材にしています。
それらの作者である紫式部と清少納言は下級貴族の家柄出身でしたが、宮中の人間模様や暮らしぶりをいきいきと描写できた理由は、彼女達の職業にありました。
紫式部も清少納言も、朝廷で高貴な人々に仕えて身の回りの世話などに従事する、「女房」として働いていたのです。紫式部は「藤原道長」の長女である「藤原彰子」を、清少納言は藤原道長の長兄である「藤原道隆」の長女、「藤原定子」をそれぞれの主君とし、その教育係を務めていました。
藤原彰子と藤原定子は66代「一条天皇」の皇后となり、その別名である「中宮」を号していた人物。正確に言うと、もとは先に入内していた藤原定子が中宮を号していましたが、あとから皇后の座に就いた藤原彰子に中宮の称号を譲り、藤原定子は「皇后宮」を号しています。
このいわゆる「一帝二后」の状況において、藤原定子と藤原彰子にとっての最重要事項は、どちらが一条天皇からのより深い寵愛を受け、次期天皇となる皇子を産むのかということ。それぞれの女房であった紫式部と清少納言はこれを叶えるべく、主君を教養のある魅力的な女性に成長させるために、漢詩や和歌などを指導していました。つまり、紫式部と清少納言が現代においてライバル扱いされるのは、2人の主君が両者とも、「天皇の后」という立場にあったことが要因のひとつだったのです。
とは言っても、清少納言が宮仕えをしていたのが1000年(長保2年)頃までであったのに対し、紫式部が宮仕えを始めたのは1006年(寛弘3年)、もしくは1007年(寛弘4年)頃と伝えられているため、現在では2人が一緒に宮中で働く同僚ではなく、直接の面識はなかったとする説が有力となっています。
②和歌が百人一首に選ばれる
女房として働きながら作家としての才能を開花させた紫式部と清少納言ですが、歌人としても高く評価されていました。その証拠に2人の詠んだ和歌が、公家の「藤原定家」が撰した「小倉百人一首」に収録されています。
「新古今和歌集」に記載された紫式部本人による本作の詞書(ことばがき:和歌などの前書きとして、その作品の主題や動機などを記した物)には、「昔からの幼馴染であった友人が久しぶりに遊びに来たのに、ほんのわずかな時間しか居てくれず、月と競うようにして帰ってしまわれたので(この歌を詠んだ)」とあります。
長年の友人に久々に逢えた嬉しさと楽しい再会の時間があっという間に過ぎてしまった寂しさを、せっかく現れても、すぐに雲間に隠れてしまう月になぞらえて詠んだ歌です。
<原文>
夜をこめて 鳥の空音は謀るとも 世に逢坂の関は許さじ
<現代語訳>
夜の明けないうちに、鶏の鳴き真似をして夜明けだと人を騙しても、中国の函谷関の番人ならともかく、あなたと私の間にあるこの逢坂の関は決して開きませんよ。
本作は宮中で清少納言と仲が良かった大納言、「藤原行成」とのやり取りの中で詠まれた一首。
ある夜、藤原行成が清少納言のもとを訪れ、しばらく語らっていましたが、藤原行成は早々と帰宅してしまいました。
翌朝、「鶏の鳴き声に急かされてしまって」と弁明の便りを送って来た藤原行成に対して清少納言は、「夜更けに鶏の声ということは、中国の函谷関の故事にあるような鶏の鳴き真似ではないでしょうか」と返してやり込めたのです。
函谷関の故事とは、中国の歴史家「司馬遷」が著した歴史書「史記」に登場する、「孟嘗君」の故事のこと。清少納言がいかに教養に溢れ、男性とも対等に渡り合える気丈な性格であったかが窺える逸話です。
③地方暮らしの経験あり
紫式部と清少納言は下級と言えども、貴族の家柄出身、さらに宮仕えをしていたことから、生涯を通して「平安京」に住んでいたと思われることが多いですが、実は2人とも京を出て、数年間ほど地方で暮らしていたことがありました。
紫式部は996~998年(長徳2~4年)、推定27~29歳の約2年間を、越前国(現在の福井県北東部)で過ごしています。これは同国が、父であり漢詩人であった「藤原為時」の任国であったことが理由。藤原為時は、一条天皇に詩を奉じたことがきっかけで「越前守」に任ぜられ、越前国へ下向することになりましたが、このときに紫式部も同行していたのです。
また、清少納言は974~978年(天延2年~天元元年)、推定9~13歳の約4年間を、父で歌人の「清原元輔」の任国・周防国(現在の山口県南東部)で過ごしています。清原元輔は「周防守」のほかに、鋳銭機関の長官も兼任していました。
紫式部と清少納言、両者の家格は、京ではなく実際に地方の任国に赴いて政務を執り行う、いわゆる「受領」階級だったのです。
紫式部と清少納言における2つの違い
①2人は「陰」と「陽」な真逆の性格だった
紫式部も清少納言も正確な生没年は不明ですが、清少納言のほうが年齢は上であったと伝えられています。そんな2人は下級貴族の出身、職業が宮仕えであるなど同じ境遇に身を置き、どちらも「才女」だと評価されていますが、「陰」と「陽」に例えられるほど、真逆な性格だったと伝えられているのです。
紫式部:引っ込み思案で慎ましい性格
紫式部は、世界最古の長編小説である源氏物語を書き上げる文才を持っていながら、その教養の高さを人に見せ付けることはしない、慎ましい性格であったと言われています。それどころか紫式部は、宮中では漢数字の「一」すら読めないふりをして、なるべく目立たないように振る舞っていたのです。
これは当時、漢籍などは男性が習うものであり、女性が漢詩や漢文の知識を持つことは生意気で、はしたないことであるとされていたことが大きな要因。
実際、紫式部が書いたと伝わる「紫式部日記」には、紫式部が弟の「藤原惟規」(ふじわらののぶのり/これのぶ)よりも漢籍の覚えが良かったため、父から「お前が男でないのが残念だ」と嘆かれたり、「左衛門の内侍」(さいものないし)と称する女房から、「日本書紀のお局」というあだ名を付けられたりした逸話が載せられています。こうした時代背景や実体験が、紫式部に無学を装うことを決意させたのかもしれません。
またこのことは、紫式部が、漢文に興味を持った主君・藤原彰子から頼まれて「白居易」(はくきょい)の漢詩「新楽府」(しんがふ)を講義する際にも、他の女房達に悟られないよう、ひっそりと行っていた逸話が紫式部日記に綴られていることからも窺えるのです。
清少納言:陽気で負けん気が強い性格
枕草子では複数の章段において、清少納言が豊富な漢籍の知識の持ち主であることを示す逸話が記載されています。
それらのうちのひとつが、第280段(299段の説もあり)「雪のいと高う[たこう]降りたるを」。ある雪が高く積もった朝のこと、普段上がっている格子が下りていた中、藤原定子のもとに清少納言をはじめとする女房達が集まって話をしていました。すると突然、藤原定子が清少納言に「香炉峰[こうろほう]の雪はどうであろうか」と尋ねます。
これに対して、清少納言が人に命じて格子を上げさせたあと、自分で御簾(みす:宮殿などに用いるすだれ)を高く巻き上げて外の雪が見えるようにすると、藤原定子は、にっこりと微笑んだのです。
香炉峰とは白楽天が詠んだ漢詩に登場する中国の山であり、このとき清少納言は、その詩の内容通りに振る舞ったのでした。この清少納言による気の利いた演出は、藤原定子はもちろん、その場にいた女房仲間からも大絶賛を博します。その他にも清少納言は、漢籍の知識をもって男性貴族と互角にやり合う様子などを枕草子に書き残しました。こういったことから清少納言は、紫式部とは対照的に、自身の持つ教養を臆することなく披露できる、気の強い性格であったことが分かります。むしろ清少納言は、自身の教養の高さを披露して楽しめる、陽気さも持ち併せていたのです。
紫式部は紫式部日記において、このように真逆な性格であった清少納言のことを、「利口ぶって漢字を書き散らしているけれど、その学識の程度はまだまだ足らない。そんな人の行く末は、ただ『変』なだけになってしまうでしょう」と辛辣に批判しています。これにより、紫式部と清少納言が不仲であったとする説が、まことしやかに囁かれているのです。
②後宮=サロンの雰囲気も正反対だった
ここまで述べてきた通り、紫式部と清少納言の性格は真逆であったと伝えられていますが、その大きな要因のひとつとして挙げられるのが、それぞれが仕えた主君、藤原彰子と藤原定子の住む、「後宮」(こうきゅう)が持つ雰囲気の違いです。当時の後宮は后に仕える女房達が集い、そこに上流貴族の男性達が訪れる社交場、つまり「サロン」のような役割を担っていたと言われています。そしてこの後宮サロンから、源氏物語や枕草子といった王朝文学が生み出されました。
枕草子には藤原定子が知的な駄洒落を言い、それを清少納言が称賛する場面や、庭に作られた雪山がいつ溶けるのか、清少納言ら女房と藤原定子が賭けをする場面などが描かれています。これらの逸話から藤原定子の後宮は、機知に富んだ会話が繰り広げられる、明るい雰囲気が漂っていたことが読み取れるのです。
また紫式部日記によれば、紫式部は藤原彰子のことを「上品で奥ゆかしいご性格ですが、遠慮してご自分の気持ちを抑え込んでしまうところがある」と評しており、それ故に、藤原彰子に仕える女房達にも引っ込み思案な者が多かったと述べています。
そのため紫式部は、藤原彰子に仕えることになったときには藤原定子が崩御されてから5~6年経っていたのにもかかわらず、男性貴族達の間で藤原定子の後宮を懐かしむ空気があったと考えており、このことに引け目を感じていたと言うのです。
この紫式部日記に記述のある逸話からは、紫式部と清少納言は直接の面識はなくても、紫式部が一方的にライバルとして意識していたことが窺えます。
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「枕草子」原文
春はあけぼの。 やうやう白くなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。
夏は夜。月のころはさらなり。闇もなほ、蛍の多く飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど 、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし。
秋は夕暮れ。夕日のさして山の端いと近うなりたるに、烏の寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど、飛びいそぐさへあはれなり。まいて雁などのつらねたるが、いと小さく見ゆるはいとをかし。日入りはてて、風の音、虫の音など、はた言ふべきにあらず。
冬はつとめて。雪の降りたるはいふべきにもあらず、霜のいと白きも、またさらでもいと寒きに、火など急ぎおこして、炭もて渡るもいとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火も白き灰がちになりてわろし。
「枕草子」現代語訳
春は、夜明けが良い。だんだん白んでいく山の稜線が少し明るくなって、紫がかった雲が細くたなびいているのが美しい。
夏は、夜が良い。月が出ている頃はもちろんだが、闇夜でも蛍がたくさん飛び交っているのは風情がある。また、一つ二つと、かすかに光りながら飛んでいく蛍も趣がある。雨が降るのもまた良いものだ。
秋は、夕暮れが良い。夕日が差して、山の端にとても近くなった頃に、カラスがねぐらへ帰ろうとして、三羽、四羽、あるいは二羽、三羽と急いで飛んでいく姿さえも、なんともしみじみとした情感がある。まして、雁の群れが連なって飛んでいるのが小さく見えるのは、とても趣深い。日がすっかり沈んでしまってから聞こえる、風の音や虫の声などは、もう言うまでもないほど素晴らしい。
冬は、早朝が良い。雪が降っている朝は言うまでもない。霜がとても白く降りているのも、またそうでないとても寒い時には、火などを急いで起こして、炭を持って行き来するのも、実にふさわしい光景だ。昼になって、暖かくなってくると、火鉢の火も白い灰が多くなってしまい、良くない。
清少納言

枕草子の作者、清少納言(せいしょうなごん)
京都に都を遷都した794年の平安京遷都から1185年の鎌倉幕府成立まで、約400年続いた平安時代。どんな時代だったのか。
清少納言の生きた平安時代

平安京の都市計画として、平城京や藤原京と同様に、唐の都・洛陽や長安の制度を模倣した碁盤の目のような区画整理された条坊制が採用されたが、都の周囲には羅城がなく、軍備施設も具備されなかった。さらに、天皇の住まいと政庁を兼ね備えた大内裏を都の北辺中央に置く、平安京独自のプランも見られた。
清少納言は歌人清原元輔のむすめ。当時の女性としては、めずらしく漢文も読みこなした。一条天皇のきさき定子に仕え、そのときのことを「枕草子」にあらわす。
清少納言と紫式部

「紫式部」と「清少納言」はどちらも言わずと知れた、平安時代中期の女流作家です。一方で紫式部の「源氏物語」は「作り物語」、清少納言の「枕草子」は「随筆」と、それぞれが執筆した代表作のジャンルは異なっています。そんな2人はライバルとして何かと比較され、一部では不仲説が囁かれていますが、実際はどうだったのでしょうか。NHK大河ドラマ「光る君へ」の登場人物としても話題を呼んでいる紫式部と清少納言について、彼女達の共通点と違いを解説しつつ、両者の関係性について探っていきます。
紫式部と清少納言における3つの共通点
①「宮仕え」をして中宮の教育係を務める
「源氏物語」と「枕草子」はジャンルこそ違いますが、両作品とも平安時代中期の貴族社会を題材にしています。
それらの作者である紫式部と清少納言は下級貴族の家柄出身でしたが、宮中の人間模様や暮らしぶりをいきいきと描写できた理由は、彼女達の職業にありました。
紫式部も清少納言も、朝廷で高貴な人々に仕えて身の回りの世話などに従事する、「女房」として働いていたのです。紫式部は「藤原道長」の長女である「藤原彰子」を、清少納言は藤原道長の長兄である「藤原道隆」の長女、「藤原定子」をそれぞれの主君とし、その教育係を務めていました。
藤原彰子と藤原定子は66代「一条天皇」の皇后となり、その別名である「中宮」を号していた人物。正確に言うと、もとは先に入内していた藤原定子が中宮を号していましたが、あとから皇后の座に就いた藤原彰子に中宮の称号を譲り、藤原定子は「皇后宮」を号しています。
このいわゆる「一帝二后」の状況において、藤原定子と藤原彰子にとっての最重要事項は、どちらが一条天皇からのより深い寵愛を受け、次期天皇となる皇子を産むのかということ。それぞれの女房であった紫式部と清少納言はこれを叶えるべく、主君を教養のある魅力的な女性に成長させるために、漢詩や和歌などを指導していました。つまり、紫式部と清少納言が現代においてライバル扱いされるのは、2人の主君が両者とも、「天皇の后」という立場にあったことが要因のひとつだったのです。
とは言っても、清少納言が宮仕えをしていたのが1000年(長保2年)頃までであったのに対し、紫式部が宮仕えを始めたのは1006年(寛弘3年)、もしくは1007年(寛弘4年)頃と伝えられているため、現在では2人が一緒に宮中で働く同僚ではなく、直接の面識はなかったとする説が有力となっています。
②和歌が百人一首に選ばれる
女房として働きながら作家としての才能を開花させた紫式部と清少納言ですが、歌人としても高く評価されていました。その証拠に2人の詠んだ和歌が、公家の「藤原定家」が撰した「小倉百人一首」に収録されています。
「新古今和歌集」に記載された紫式部本人による本作の詞書(ことばがき:和歌などの前書きとして、その作品の主題や動機などを記した物)には、「昔からの幼馴染であった友人が久しぶりに遊びに来たのに、ほんのわずかな時間しか居てくれず、月と競うようにして帰ってしまわれたので(この歌を詠んだ)」とあります。
長年の友人に久々に逢えた嬉しさと楽しい再会の時間があっという間に過ぎてしまった寂しさを、せっかく現れても、すぐに雲間に隠れてしまう月になぞらえて詠んだ歌です。
<原文>
夜をこめて 鳥の空音は謀るとも 世に逢坂の関は許さじ
<現代語訳>
夜の明けないうちに、鶏の鳴き真似をして夜明けだと人を騙しても、中国の函谷関の番人ならともかく、あなたと私の間にあるこの逢坂の関は決して開きませんよ。
本作は宮中で清少納言と仲が良かった大納言、「藤原行成」とのやり取りの中で詠まれた一首。
ある夜、藤原行成が清少納言のもとを訪れ、しばらく語らっていましたが、藤原行成は早々と帰宅してしまいました。
翌朝、「鶏の鳴き声に急かされてしまって」と弁明の便りを送って来た藤原行成に対して清少納言は、「夜更けに鶏の声ということは、中国の函谷関の故事にあるような鶏の鳴き真似ではないでしょうか」と返してやり込めたのです。
函谷関の故事とは、中国の歴史家「司馬遷」が著した歴史書「史記」に登場する、「孟嘗君」の故事のこと。清少納言がいかに教養に溢れ、男性とも対等に渡り合える気丈な性格であったかが窺える逸話です。
③地方暮らしの経験あり
紫式部と清少納言は下級と言えども、貴族の家柄出身、さらに宮仕えをしていたことから、生涯を通して「平安京」に住んでいたと思われることが多いですが、実は2人とも京を出て、数年間ほど地方で暮らしていたことがありました。
紫式部は996~998年(長徳2~4年)、推定27~29歳の約2年間を、越前国(現在の福井県北東部)で過ごしています。これは同国が、父であり漢詩人であった「藤原為時」の任国であったことが理由。藤原為時は、一条天皇に詩を奉じたことがきっかけで「越前守」に任ぜられ、越前国へ下向することになりましたが、このときに紫式部も同行していたのです。
また、清少納言は974~978年(天延2年~天元元年)、推定9~13歳の約4年間を、父で歌人の「清原元輔」の任国・周防国(現在の山口県南東部)で過ごしています。清原元輔は「周防守」のほかに、鋳銭機関の長官も兼任していました。
紫式部と清少納言、両者の家格は、京ではなく実際に地方の任国に赴いて政務を執り行う、いわゆる「受領」階級だったのです。
紫式部と清少納言における2つの違い
①2人は「陰」と「陽」な真逆の性格だった
紫式部も清少納言も正確な生没年は不明ですが、清少納言のほうが年齢は上であったと伝えられています。そんな2人は下級貴族の出身、職業が宮仕えであるなど同じ境遇に身を置き、どちらも「才女」だと評価されていますが、「陰」と「陽」に例えられるほど、真逆な性格だったと伝えられているのです。
紫式部:引っ込み思案で慎ましい性格
紫式部は、世界最古の長編小説である源氏物語を書き上げる文才を持っていながら、その教養の高さを人に見せ付けることはしない、慎ましい性格であったと言われています。それどころか紫式部は、宮中では漢数字の「一」すら読めないふりをして、なるべく目立たないように振る舞っていたのです。
これは当時、漢籍などは男性が習うものであり、女性が漢詩や漢文の知識を持つことは生意気で、はしたないことであるとされていたことが大きな要因。
実際、紫式部が書いたと伝わる「紫式部日記」には、紫式部が弟の「藤原惟規」(ふじわらののぶのり/これのぶ)よりも漢籍の覚えが良かったため、父から「お前が男でないのが残念だ」と嘆かれたり、「左衛門の内侍」(さいものないし)と称する女房から、「日本書紀のお局」というあだ名を付けられたりした逸話が載せられています。こうした時代背景や実体験が、紫式部に無学を装うことを決意させたのかもしれません。
またこのことは、紫式部が、漢文に興味を持った主君・藤原彰子から頼まれて「白居易」(はくきょい)の漢詩「新楽府」(しんがふ)を講義する際にも、他の女房達に悟られないよう、ひっそりと行っていた逸話が紫式部日記に綴られていることからも窺えるのです。
清少納言:陽気で負けん気が強い性格
枕草子では複数の章段において、清少納言が豊富な漢籍の知識の持ち主であることを示す逸話が記載されています。
それらのうちのひとつが、第280段(299段の説もあり)「雪のいと高う[たこう]降りたるを」。ある雪が高く積もった朝のこと、普段上がっている格子が下りていた中、藤原定子のもとに清少納言をはじめとする女房達が集まって話をしていました。すると突然、藤原定子が清少納言に「香炉峰[こうろほう]の雪はどうであろうか」と尋ねます。
これに対して、清少納言が人に命じて格子を上げさせたあと、自分で御簾(みす:宮殿などに用いるすだれ)を高く巻き上げて外の雪が見えるようにすると、藤原定子は、にっこりと微笑んだのです。
香炉峰とは白楽天が詠んだ漢詩に登場する中国の山であり、このとき清少納言は、その詩の内容通りに振る舞ったのでした。この清少納言による気の利いた演出は、藤原定子はもちろん、その場にいた女房仲間からも大絶賛を博します。その他にも清少納言は、漢籍の知識をもって男性貴族と互角にやり合う様子などを枕草子に書き残しました。こういったことから清少納言は、紫式部とは対照的に、自身の持つ教養を臆することなく披露できる、気の強い性格であったことが分かります。むしろ清少納言は、自身の教養の高さを披露して楽しめる、陽気さも持ち併せていたのです。
紫式部は紫式部日記において、このように真逆な性格であった清少納言のことを、「利口ぶって漢字を書き散らしているけれど、その学識の程度はまだまだ足らない。そんな人の行く末は、ただ『変』なだけになってしまうでしょう」と辛辣に批判しています。これにより、紫式部と清少納言が不仲であったとする説が、まことしやかに囁かれているのです。
②後宮=サロンの雰囲気も正反対だった
ここまで述べてきた通り、紫式部と清少納言の性格は真逆であったと伝えられていますが、その大きな要因のひとつとして挙げられるのが、それぞれが仕えた主君、藤原彰子と藤原定子の住む、「後宮」(こうきゅう)が持つ雰囲気の違いです。当時の後宮は后に仕える女房達が集い、そこに上流貴族の男性達が訪れる社交場、つまり「サロン」のような役割を担っていたと言われています。そしてこの後宮サロンから、源氏物語や枕草子といった王朝文学が生み出されました。
枕草子には藤原定子が知的な駄洒落を言い、それを清少納言が称賛する場面や、庭に作られた雪山がいつ溶けるのか、清少納言ら女房と藤原定子が賭けをする場面などが描かれています。これらの逸話から藤原定子の後宮は、機知に富んだ会話が繰り広げられる、明るい雰囲気が漂っていたことが読み取れるのです。
また紫式部日記によれば、紫式部は藤原彰子のことを「上品で奥ゆかしいご性格ですが、遠慮してご自分の気持ちを抑え込んでしまうところがある」と評しており、それ故に、藤原彰子に仕える女房達にも引っ込み思案な者が多かったと述べています。
そのため紫式部は、藤原彰子に仕えることになったときには藤原定子が崩御されてから5~6年経っていたのにもかかわらず、男性貴族達の間で藤原定子の後宮を懐かしむ空気があったと考えており、このことに引け目を感じていたと言うのです。
この紫式部日記に記述のある逸話からは、紫式部と清少納言は直接の面識はなくても、紫式部が一方的にライバルとして意識していたことが窺えます。

