2025.7.3
戦後80年(ビルマ戦線)
今年で戦後80年を迎えます。太平洋戦争はミッドウエィ―海戦から連敗し敗戦濃厚となった日本の戦況ですが、起死回生を目指したビルマ陸戦「インパール作戦」がありました。その戦場を綴った作品(戦争散文集)をご紹介します。
戦争散文集
「月白(つきしろ)の道」 丸山豊著
1945年7月3日は、太平洋戦争(大東亜戦争)のビルマ戦線におけるインパール作戦(ウ号作戦)が終結(敗戦)した日です。同作戦は1944年3月8日に始まりました。大日本帝国陸軍第15師団・18師団・31師団を中心とする約10万人の兵士を動員し、戦死傷病約6万人の犠牲を出した戦いです。
戦況悪化の折、劣勢を挽回するべく援蒋ルートの遮断、およびイギリス植民地支配下のインド独立運動を支援するという名目で、インド侵攻を目指す「インパール作戦」が始まりました。戦争では2分の1が戦死傷病すると敗北といわれますが、インパール作戦は完全な戦敗なりました。
丸山豊氏

戦争従事者の日記や小説などは多く残っていますが、ビルマ戦線での戦争現場を描いた作品は「月白の道」が有名です。作者の丸山豊氏は久留米の医師で詩人です。久留米が生んだ日本現代史を代表する詩人で、丸山氏の没後「丸山豊記念現代詩賞」が設けられました。丸山豊氏の功績を広く顕彰し、優れた詩人の発掘と活動を奨励しています。
月白の道
「虫歯 私たちはお互いに心の虫歯をもっていたほうがよい。ズキズキと虫歯が痛むたびに、心のくの一番大切なところが目ざめてくる。でないと、忘却というあの便利な力をかりて、微温的なその日ぐらしのなかに、ともすれば安住してしまうのだ。さえざえとした一生を生きぬくためには、時々猛烈な痛みを呼びこむ必要がある・・・」ではじまる「月白の道」。
1944年5月、最前線の北ビルマ・ミートキーナに送られた著者を待ち受けていたのは、守備隊の全滅、そして雲南を経てチェンマイに至る泥まみれの敗退行だった。
インパール作戦(1944.3.8~1945.7.3)

私の父は職業軍人としてビルマ方面軍に配属されました。丸山豊氏より2歳年下ですが、終戦後の慰霊祭などで知り合い「月白の道」出版の資料収集など手伝いをしたと言っております。わたしも1978年に出版された、7000円の初版を買いました。製本された書籍が重かったのを覚えています。
ビルマでの戦いで生死を分けたのは、食料、水、キニーネ(マラリア特効薬)などと言われていますが、生きて帰ってこれたのは生まれ持った体力も功を奏したと父親は生前言っていました。
ビルマ方面軍 第18師団 第二大隊
第八中隊戦記に添書き

第18師団は日露戦争後の戦力増強策として1907年に創設され、師団司令部を久留米市で開庁。現在も陸上自衛隊の久留米駐屯地があります。第18師団は福岡、佐賀、長崎の三県出身者で構成され、マレー作戦・シンガポール作戦に参戦する。
インパール作戦では、インドのミートキーナ迄侵攻したが、水上源蔵少将の判断のもと撤退を開始。第18師団のビルマ方面参加兵力31444名のうち、20000以上が戦死をする。戦死の内容はほとんどが栄養失調とマラリア感染でした。
映画「戦場にかける橋」(アカデミー賞7部門)

インパール作戦では、25歳で大隊長(少佐)として1000人の部下を連れて最前線を進軍しました。父は戦争の話はほとんどしませんが、映画「戦場にかける橋」を見ている時、クウェー(クワイ)川鉄橋は映画設定の1年後に自分たちが爆破したので、映画の内容は史実とは違うと語っていました。
映画「戦場にかける橋」は1957年公開の英・米合作作品。製作会社はコロンビア映画で、第30回アカデミー賞で作品賞を含む7賞を受賞。
「白骨街道」と呼ばれるインパールへの道

内容は第二次世界大戦の只中である1943年のタイとビルマの国境付近にある捕虜収容所を舞台に、捕虜となったイギリス軍兵士らと、彼らを強制的に鉄道建設に動員しようとする日本人大佐との対立と交流を通じ極限状態における人間の尊厳と名誉、戦争の惨さを表現した戦争映画。
舞台となった鉄橋が架かるタイ王国のクウェー川の旧来の名称はメークロン川であったが、この映画によって「クワイ川」が著名となったためにクウェー・ヤイ川と改名され、川に架かるクウェー川鉄橋は公開後半世紀経過した現在でも観光名所となっている。
クワイ河マーチ(映画音楽で最も親しまれている曲)

また、劇中で演奏される『クワイ河マーチ』(『ボギー大佐』を編曲)も世界各国で幅広く演奏される、数ある映画音楽の中でも最も親しまれている作品の1つである。
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戦争散文集
「月白(つきしろ)の道」 丸山豊著
1945年7月3日は、太平洋戦争(大東亜戦争)のビルマ戦線におけるインパール作戦(ウ号作戦)が終結(敗戦)した日です。同作戦は1944年3月8日に始まりました。大日本帝国陸軍第15師団・18師団・31師団を中心とする約10万人の兵士を動員し、戦死傷病約6万人の犠牲を出した戦いです。
戦況悪化の折、劣勢を挽回するべく援蒋ルートの遮断、およびイギリス植民地支配下のインド独立運動を支援するという名目で、インド侵攻を目指す「インパール作戦」が始まりました。戦争では2分の1が戦死傷病すると敗北といわれますが、インパール作戦は完全な戦敗なりました。
丸山豊氏

戦争従事者の日記や小説などは多く残っていますが、ビルマ戦線での戦争現場を描いた作品は「月白の道」が有名です。作者の丸山豊氏は久留米の医師で詩人です。久留米が生んだ日本現代史を代表する詩人で、丸山氏の没後「丸山豊記念現代詩賞」が設けられました。丸山豊氏の功績を広く顕彰し、優れた詩人の発掘と活動を奨励しています。
月白の道
「虫歯 私たちはお互いに心の虫歯をもっていたほうがよい。ズキズキと虫歯が痛むたびに、心のくの一番大切なところが目ざめてくる。でないと、忘却というあの便利な力をかりて、微温的なその日ぐらしのなかに、ともすれば安住してしまうのだ。さえざえとした一生を生きぬくためには、時々猛烈な痛みを呼びこむ必要がある・・・」ではじまる「月白の道」。
1944年5月、最前線の北ビルマ・ミートキーナに送られた著者を待ち受けていたのは、守備隊の全滅、そして雲南を経てチェンマイに至る泥まみれの敗退行だった。
インパール作戦(1944.3.8~1945.7.3)

私の父は職業軍人としてビルマ方面軍に配属されました。丸山豊氏より2歳年下ですが、終戦後の慰霊祭などで知り合い「月白の道」出版の資料収集など手伝いをしたと言っております。わたしも1978年に出版された、7000円の初版を買いました。製本された書籍が重かったのを覚えています。
ビルマでの戦いで生死を分けたのは、食料、水、キニーネ(マラリア特効薬)などと言われていますが、生きて帰ってこれたのは生まれ持った体力も功を奏したと父親は生前言っていました。
ビルマ方面軍 第18師団 第二大隊
第八中隊戦記に添書き

第18師団は日露戦争後の戦力増強策として1907年に創設され、師団司令部を久留米市で開庁。現在も陸上自衛隊の久留米駐屯地があります。第18師団は福岡、佐賀、長崎の三県出身者で構成され、マレー作戦・シンガポール作戦に参戦する。
インパール作戦では、インドのミートキーナ迄侵攻したが、水上源蔵少将の判断のもと撤退を開始。第18師団のビルマ方面参加兵力31444名のうち、20000以上が戦死をする。戦死の内容はほとんどが栄養失調とマラリア感染でした。
映画「戦場にかける橋」(アカデミー賞7部門)

インパール作戦では、25歳で大隊長(少佐)として1000人の部下を連れて最前線を進軍しました。父は戦争の話はほとんどしませんが、映画「戦場にかける橋」を見ている時、クウェー(クワイ)川鉄橋は映画設定の1年後に自分たちが爆破したので、映画の内容は史実とは違うと語っていました。
映画「戦場にかける橋」は1957年公開の英・米合作作品。製作会社はコロンビア映画で、第30回アカデミー賞で作品賞を含む7賞を受賞。
「白骨街道」と呼ばれるインパールへの道

内容は第二次世界大戦の只中である1943年のタイとビルマの国境付近にある捕虜収容所を舞台に、捕虜となったイギリス軍兵士らと、彼らを強制的に鉄道建設に動員しようとする日本人大佐との対立と交流を通じ極限状態における人間の尊厳と名誉、戦争の惨さを表現した戦争映画。
舞台となった鉄橋が架かるタイ王国のクウェー川の旧来の名称はメークロン川であったが、この映画によって「クワイ川」が著名となったためにクウェー・ヤイ川と改名され、川に架かるクウェー川鉄橋は公開後半世紀経過した現在でも観光名所となっている。
クワイ河マーチ(映画音楽で最も親しまれている曲)

また、劇中で演奏される『クワイ河マーチ』(『ボギー大佐』を編曲)も世界各国で幅広く演奏される、数ある映画音楽の中でも最も親しまれている作品の1つである。

